第一章 ~黎明期~ 戦前の秋葉原

 戦前の秋葉原の歴史を振り返る前に、戦前の日本、「電化」生活の歴史を整理しておきましょう。
若いネットワーカーには「電化」という言葉がピンとこないかもしれません。「電化」、今で言えば、まさしく「エレクトロニクス化」。現在の「情報化」と同じ響き、いや、それ以上の響きをもって、戦前・戦後の日本人の胸をときめかせた言葉である。
 昨日までまっ暗だった部屋に明かりがともる。遠くの出来事が、音声で、映像で伝わってくる。いつでも冷たい飲み物が飲める。洗濯や掃除の力仕事から開放される。いずれも「電化」という言葉とともに、明るい未来を感じさせるキーワードだった。

戦前の日本の歴史の概要


明治・大正と欧米に追い付け追い越せと頑張ってきた日本は、世界の経済変動・震災などと連動して、ジェットコースターのように好景気・不景気を繰返していった。
 大正3年にはじまる第一次世界対戦は戦地がヨーロッパということで、戦中、そして復興期とも、ヨーロッパへの軍需・民需の輸出により、日本国内は未曾有と言われた活況を呈した。しかし、その反動で大正9年3月の株価暴落とともに長い不況に入り、さらに大正12年9月1日の関東大震災によって東京・横浜は壊滅的な打撃を受けた。


 政府は30日間のモラトリアム(支払中止)を断行し、震災手形について日本銀行に4億円の特別融資をさせ、政府が1億円の損失補償をした。この措置により、一時期復興景気に沸くが、大正13年に成立した加藤高明内閣の緊縮政策によって再び不況へと逆戻りした。
 第一次対戦後の好景気の際の過剰投資、不良在庫の蓄積、そして震災の手形処理の問題を抱え、日本経済は混迷の極みにあった。
 そして、昭和2年3月14日に、衆議院で、時の若槻内閣蔵相片岡直温が、まだ営業中の東京渡辺銀行が破綻したと失言したため、翌日同銀行が休業。取付け騒ぎに発展し、その騒ぎが飛び火し、東京・横浜の中小銀行でもで取付け騒ぎが発生し、多くの銀行が休業した。
 さらに当時、急成長で、財閥系の商社を脅かすほどの規模になっていた鈴木商店が、主力銀行である台湾銀行から取引停止を受ける。震災手形の最大の債務者であった鈴木商店の混乱はそのまま、日本経済全体を揺るがし、当時の5大銀行のひとつである十五銀行の休業を経て、いわゆる「金融恐慌」の頂点へと達した。
 政府は、3週間のモラトリアムを実施、政府保証による日銀特別融資を行い、ようやくこの不況を鎮静化させた。
 しかし、その鎮静も束の間、昭和4年にアメリカで始まった世界大不況の影響、そして昭和5年の金解禁によるデフレ・緊縮財政政策により日本経済はますます、苦境に立たされ、軍の台頭と、帝国主義に基づく海外侵略にむかわせる。
昭和6年の満州事変、昭和7年の5.15事件、昭和12年の日華事変と緊迫した時世へと向かうことになっていく。

電化の歴史と秋葉原の黎明期

 このような活況と不況を繰り返す混乱した世相でありながら、技術の進歩と共に「電化」の歴史は確実に進歩し、「電気」は確実に大衆化していった。
 明治11年、東京電信中央局の開局祝いの席で、電池によって始めてアーク灯という電灯がともされた。それからわずか5年後の明治16年、早くも東京電灯会社(現在の東京電力)が設立され、明治20年に茅場町で初の火力発電所が設置された。
 当時は家庭や工場に電気を引こうとすると、電気工事が必要で、技術者が設置してくれなければならなかった。初期はこの工事は電灯会社が請け負ったが、工事量が増えるに連れて、かって電灯会社に従事していた工事人が独立して工事を請け負うようになっていく。
 特に先の歴史で解説した「第一次世界対戦後の好景気」の際には、大都市周辺の工場設備が急拡大し電気工事量が急増した。この工事に必要な「電材」、いわゆる「電気材料」を販売する「電気材料卸商」が都内のあちこちに繁盛するようになる。「電気材料卸商」達は工事に必要な電線・配電盤・スイッチ類を販売した。

その一方で、大正14年に、NHKがラジオ放送を開始。当時の不安な世相を背景に情報入手の手段として、娯楽の手段として急速に普及していく。
 わずか4年後で受信契約数(当時はラジオも受信契約が必要だった)は60万人を突破、7年後の昭和7年には160万人を突破した。

当時のラジオは、現在のような完成品はまれで、真空管や、スピーカー、トランスなどの部品を組み立てて作る「組み立てラジオ」であった。
工場や家庭向けの工事部品の販売と、一般大衆向けのラジオ部品の販売という、両輪の好調を経て、社会的には混乱する時代の中、「電気材料卸売商」は着実に成長していった。

 当時、東京全体を見ると、秋葉原近くには、広瀬無線・山際電気・高岡電気・中川無線があり、上野には川松電機・志村無線・片桐商店・信井商会・島電気、小川町には富久無線・今村電気・放電カンパニー、両国にはミツワ電機、荒川には吉田無線・小寺乾電池などがあった。

 しかし、秋葉原は、その中心とはいいがたく、神田、上野、浅草などが明治以来の繁華街の間のエリアとして、徐々に商業地域として成長していく段階であったに過ぎない。

 当時の町並みとしては、江戸時代から秋葉原は商店と住居が雑居する「しもたや」風情。一番多いのは、馬蹄屋。骨董品屋、麻布屋が多かった。この当時、近代的なビルは、すでに新宿に移転していた伊勢丹デパートだけであった。(現在もヤマギワリビナ横の日本石油ガソリンスタンド脇に「伊勢丹発祥の地」の石碑を見ることが出来る)
 昭和8年に現在の秋葉原の中心となる広瀬商会・山際電気商会が外神田に店を構え、広瀬商会は、ラジオ部品の専門問屋として全国の小売店に販売を展開し、山際電気商会はオリジナルラジオセットの販売と、急成長を展開し、秋葉原の将来の発展を予感させた。


 大正から昭和にかけては、須田町が市電の交通の要であり、国電中央線の始発駅万世橋駅(現在の交通博物館)は一日の乗降客数が東京で4番目と、人々が賑やかに乗降した。また昭和2年には浅草から上野にかけて東京で最初の地下鉄が開業した。その後延長して現在の万世橋下を掘り削りして貫通したときは川の下を電車が通ると当時おおいに話題になった。

 その後、昭和16年に太平洋戦争に突入。工場は軍需工場に転用されるようになる。ラジオ関係などの電気材料なども軍の御用達以外入手困難になり、電球も配給制になるなど急速に商売をやる状況ではなくなっていく。
 昭和20年3月9日から10日にかけての東京大空襲で東京はほぼ壊滅状態になり、秋葉原の町並みもほとんど焦土と化した。

この焼け野原から、戦後の新しい繁栄を、迎えることになっていく。

参考文献:
「千代田区史(千代田区刊)」
「The秋葉原(日経産業新聞編)」

「ヤマギワ60年の歩み」
「ラオックス50年社史」