第二章 ~焼け野原からの出発~ 昭和20年

焼け野原になった東京(昭和20年)
焼け野原になった東京(昭和20年)

 戦後の秋葉原の復興を振り返るには、昭和20年代の歴史をすこし振り返ることが必要だ。
まず、日本経済全体の流れを振り返るキーワードは
 (1)インフレ抑制のための新円切換え(昭和21年2月)
 (2)ドッジライン、シャウプ税制(昭和24年4月)によるデフレ経済の発生
 (3)朝鮮動乱による特需景気(昭和25年6月~28年7月)
そして秋葉原を取り巻く状況に大きく影響したのは
 (4)組み立てラジオ人気による露天商の繁栄
 (5)GHQ(占領軍)による露店撤廃例(昭和24年9月)
 (6)民放ラジオ局放送開始(昭和26年)
 (7)昭和28年「家電元年」~テレビ放送の開始~
の7ポイントである。
昭和6年の満州事変、昭和7年の5.15事件、昭和12年の日華事変と緊迫した時世へと向かうことになっていく。

昭和20年代の日本経済全体の流れ

終戦直後のヤミ市(昭和21年)
終戦直後のヤミ市(昭和21年)

 昭和20年8月15日の終戦の時点では、まさに東京は焼け野原であった。
しかし、人々は食べなければ生きていけない。食料品や日用品を求める人が溢れ、東京近郊ではモノさえあれば何でも売れる時代であった。新橋/新宿/渋谷、そして神田/上野/秋葉原などの国鉄の乗降客の多い駅の周辺にはいわゆるヤミ市が発生して、人々は物を求めて集まってきて、ヤミ市は活況を呈した。

(1)インフレ抑制のための新円切換え(昭和21年2月)
 戦争が終わり、戦地から復員してくる人が増え、物資がますます不足する一方で、700万人に上った軍人、軍属の退職金や軍事工場への臨時軍事費の支払いなどが、終戦後わずか3ケ月で合計266億円にも達し、この金額は昭和18年の臨時軍事費とほぼ同じ金額であり、モノがないのに、通貨ばかりが増加すれば、当然、急速にインフレが進んでいく。昭和20年から21年には物価が5倍になった。このような極度のインフレは国民の不安感をますます増幅し、また物資を買いあさるという悪循環を繰り返した。その様な状況で、政府は「旧紙幣(5円以上)」をすべて金融機関に預けさせ封鎖預金とし、21年3月からは、世帯主300円、家族100円に限って新円で引き出すことができるようにした。すなわち、「金融緊急措置令」と「日本銀行預入令」であり、いわゆる「新円切換え」である。さらに「物価統制令」が公布、施行され、新物価体系(3.3物価体系)が公布された。この一連の施策で、一旦は、需要抑制策は一応の成功をおさめ、しばらくはインフレは沈静化した。

(2)ドッジライン、シャウプ税制(昭和24年4月)によるデフレ経済の発生
 このようなインフレ体質の日本経済を本格的に体質改善しようと、当時のGHQ(占領軍総司令部)は「経済安定9原則」を打ち出し、24年2月にデトロイト銀行頭取ドッジ公使兼GHQ顧問が来日し、日本の一連の財政金融政策について勧告を行った。この勧告に準じて24年度から強力な安定政策が施行された。これがいわゆる「ドッジライン」である。
 ドッジラインは、(A)国家予算の均衡(税収と財政支出の均衡)、(B)単一為替レート(1ドル=360円)と自由貿易、(C)米国の対日援助方式の改革(いわゆる「二本の竹馬の足を切る」といわれた米国援助と国内補給金の打ち切り)を基本とした。
 その結果、インフレ抑制には効果があったが、逆に、金融の極度の逼迫、弱小企業の倒産、失業者の増大とデフレ経済の様相を見せはじめた。
 さらに「税収の拡大」を目的とした「シャウプ勧告」にもとづく税制改正は、特に法人に対してのの課税が急増し、企業経営を圧迫し、多くの会社が倒産した。

(3)朝鮮動乱による特需景気(昭和25年6月~28年7月)
 このような、苦境を救ったのが昭和25年6月に始まる朝鮮動乱である。隣国で起こった不幸な事変は、日本を軍需基地化し、物資/サービスとも莫大な特需を生み、輸出も急増した。産業界は息を吹き返し、秋葉原周辺の電気製品卸業、電気工事材料業も、在庫がたちまち値上がりし、あらゆる商品が高騰、場合によっては何倍にもなり、急激に活況を呈した。
 昭和20年代の日本は、以上の3つのターニングポイントで、好不況を繰り返した。

昭和20年代の秋葉原を取り巻く変化

 終戦の時点で、秋葉原一体はほとんど焼け野原で、上野から須田町が見渡せたほどであった。しかし、終戦を待ちかねていた電気店は続々と店を再開し、あるいは起業し店を構えて新しい時代を切り開いていった。
 戦前から店を構えていた、廣瀬無線、山際電気商会、高岡電気、中川無線に加え、今村電気、石丸電気、志村無線、谷口商店、朝日無線電機、中浦電気、ミナミ無線、山菱電気などが中央通り沿いに店を構え、万世橋近くに鹿野無線、須田町角に万世商会、中嶋無線、金田商会があった。また、昭和23年に角田無線が現在の場所に、新徳電気、オノデンも店舗を構えた。現在の秋葉原の下地が戦後のわずかな期間に急速につくられていった。
 秋葉原に電器商が多数集結してきた背景は、廣瀬商会が総合問屋として地方にネットワークを持っており、地方から仕入れに来る小売業/総合卸/二次卸し店でにぎわっていたこと、秋葉原は安いという宣伝が行き渡っていたことが原因といわれた。また、国鉄だけではなく「都電」も当時は大事な庶民の足であり、その都電を利用するにも秋葉原は非常に便のいい場所であった。万世橋が「柳島(向島方面)」行きの起点であり、向島行きは須田町で折り返し、日本橋行きは王子から万世橋を通り、また上野から品川行きの電車もあった。また、新宿行きも万世橋から出ていた。こうした国鉄/都電の交通アクセスのよさも秋葉原に電子商が集まり、栄えた理由であろう。

左:山際電気本店(昭和25年) 右:山際電気歳末大売出(昭和26年)
左:山際電気本店(昭和25年) 右:山際電気歳末大売出(昭和26年)

(4)組み立てラジオ人気による露天商の繁栄
 その一方で、戦後の混乱の中から生まれた「露天商」のうち、小川町から神田須田町界隈の露天商の間で、真空管がよく売れ、露店の「電気街」が形成されていった。たまたま、近隣の電機工業専門学校(現在の東京電機大学)の学生が、ラジオを組み立て、販売するというアルバイトをしたところ、当時のラジオ人気で爆発的に売れた。これを見て他の露天商も品物を真空管に転じ、さらに、電気に詳しい露天商の参入もあり、一般には繊維/雑貨を主とする露天商の中で、神田小川町から神田須田町界隈の露天商だけは、昭和25年頃120軒あった露店のうち約50軒が電器商であったという。まさに「電気街」の様相を呈し始めた。

(5)GHQ(占領軍総司令部)による露店撤廃例(昭和24年9月)
 戦後の混乱が収束していく中で、日本の復興を図るには各種の社会インフラの充実が必要と考えたGHQ(占領軍総司令部)は、主要道路の敷設、拡幅を実現するために昭和24年に露店撤廃令を施行し、露天商の移転を命じた。

昭和20年代の初頭風景
昭和20年代の初頭風景

 露天商は、露店撤廃は、即、生活苦につながるために、屋根付きの代替地を要求した。東京都は国鉄と協力し、神田小川町から神田須田町界隈の露天商に秋葉原駅のガード下に代替地を提供し、昭和24年に高架線直下にラジオストアが開店した。翌昭和25年から露天商の移動が始まり、組合単位で、ラジオセンターが開店、通りを隔てた高架線横に東京ラジオデパート、そして翌年には万世橋のたもとにラジオガアデン、センターの隣には2階建ての棟割り長屋式の秋葉原電波会館が建設され、軒をつらねた。
 こうして、現在のような、中央通りと、JR秋葉原駅電気街口周辺の電気店から構成される「秋葉原」が出来上がっていった。

(6)民放ラジオ局放送開始(昭和26年)
 このように戦後形成されていった秋葉原が、さらに急成長していく中で、いくつかのビッグチャンスに恵まれていくことになる。

昭和20年代の初頭風景2
昭和20年代の初頭風景2

 先に述べた朝鮮動乱による特需に加え、戦前戦後を通じて拡大していくラジオ需要も秋葉原の繁栄に非常に貢献した。戦後の混乱期は、まず、ラジオの組み立てブームが起こる。戦乱の間は貴重な戦況情報入手の手段であったラジオは、敗戦とともに娯楽と情報を入手する手段となり、また、戦時中のラジオの買い替え需要も重なり、売れまくった。しかし、当時の完成品のラジオの価格は、組み立てた場合のパーツの合計金額の2~3倍にもなり、国民の多くは、組み立てラジオを購入した。また、昭和24年の税制変更で贅沢品であった完成品ラジオへの30%の物品税が廃止され、価格差が縮まり、昭和26年に民間ラジオ放送が開始されると、組み立て式では混信が激しく、スーパー受信機と呼ばれた完成品メーカーの商品へ変化していくが、いずれのラジオも秋葉原では、爆発的に売れていた。現在でも秋葉原内部には、無線(=ラジオ)や、ラジオの名を残す店/建物が多いのは、この当時に設立、命名されたためである。

昭和26年/早川電気(シャープ)
昭和26年/早川電気(シャープ)

(7)昭和28年「家電元年」~テレビ放送の開始~
 朝鮮動乱の特需で好景気が続く中で、次の発展のステップが近づいてきた。テレビ放送の開始である。昭和30年代前半に「三種の神器」といわれた「白黒テレビ/電気冷蔵庫/電気洗濯機」のうち、テレビと、洗濯機の爆発的ヒットの萌芽が昭和28年に始まる。この年は、家電業界では「家電元年」と呼ばれ、昭和27年との出荷台数を比較すると
 ラジオ:108万台→140万台(29%増)
 扇風機:29万台→43万台(48%増)
 冷蔵庫:3600台→7500台(108%増)
 洗濯機:1万5100台→10万4700台(593%増)
 アイロン:77万台→91万台(18%増)
と、30年代の飛躍を予感させた。

昭和28年/三洋/SW-53:噴流式1号機/28,500円
昭和28年/三洋
SW-53:噴流式
1号機/28,500円

 また、昭和26年ころまでは、ラジオ以外は、レコードプレーヤー、電気スタンド、アイロン、扇風機、電気ストーブくらいしかなかったが、昭和28年に早川電気(現在のシャープ)が14型の白黒テレビを175,000円で販売(初年度14,384台販売)。
 同じく28年8月に三洋電機は、角型噴流式洗濯機を28,500円(当時は国産丸型攪拌式が5万円以上した)で発売。
 いずれも大ヒットとなり、いわゆる「家電」のジャンルへ多くのメーカーが参入してくるようになる。
 戦前、戦後の混乱期にラジオ部品の販売、電気工事材料の販売からスタートした秋葉原は、テレビ・洗濯機の販売を飛躍の時期を迎え、卸商の小売併売、店舗の大型化が進み、成長の30年代を迎えることになる。

参考文献:
「千代田区史(千代田区刊)」
「The秋葉原(日経産業新聞編)」
「ヤマギワ60年の歩み」
「ラオックス50年社史」