第四章 ~高度経済成長の終焉とオイルショック~ 昭和40年代
昭和40年代を総括すると、昭和43年にGNPが資本主義国内で第二位になったこと、45年の大阪万国博覧会の開催の二つの出来事を代表とする高度成長期のピークと、昭和46年のニクソンショック(ドルの金兌換停止発表)、中東戦争を契機とする昭和48年のオイルショックに代表される、低成長時代への移行という、日本の経済史の中でも大きな変化の時代であった。
具体的な社会現象としては、戦後のベビーブーム世代が成人化し、新しい価値観の消費行動、文化行動を行うことが時代をひっぱった時代であった。
昭和40年のエレキギターブーム、昭和44年の東大安田講堂事件、昭和47年日本赤軍「浅間山荘事件」などの社会的な事件や現象は、団塊の世代が旧来の日本の価値観とぶつかりあったり、新しい価値観で行動することによって生じたものであり、結果的には新しい価値観と消費の世代の生まれた10年であった。
そのような40年代に秋葉原は、日本の家電業界はどのように発展していったのだろうか?まず、日本全体の昭和40年代を整理してみよう。
日本全体の昭和40年代(経済編)
都電時代の秋葉原電気街(43年) |
東京オリンピックの準備の特需と、30年代の高度成長の反動で、昭和39年は東京オリンピックの開催など華やかなことが多かったが、日本全体としては、求人難など不況であった。
昭和40年を底として、再び景気は上昇期に入り、昭和45年夏までのいわゆる「いざなぎ景気」を謳歌した。昭和41年度から45年度までの経済成長の実質成長率は年平均11.6%に達した。GNPが世界第二位になったこのころから「経済大国」「エコノミックアニマル」という言葉も聞かれるようになった。特に固定相場制に守られた輸出が好調で、設備投資・個人消費とともに日本経済は急成長していったが、この結果、繊維業界の輸出自主規制問題や、家電製品のダンピング問題など、国際社会からの厳しい反発を受けるようになり、経済摩擦へとつながっていく。
昭和40年代初期の中央通り |
また、30年代からの成長の歪みが顕在化しはじめ、労働力不足、消費者物価の上昇、産業公害、社会資本の立ち遅れ、都市圏の住宅問題・交通問題など、成長の「影」が社会問題化しはじめた。一方、消費者運動・不買運動がおこるなど学生運動に連動してイデオロギーの時代でもあった。
高度経済成長の宴のピークとして、大阪千里の万国博覧会が開催された翌年、昭和46年に、ドルの防衛のために、アメリカ政府はドルの金兌換停止を発表した。いわゆるニクソンショックである。8月に1ドル308円という新しい相場になり、それも長く続かず、変動相場制へと変わっていく。それでも当時の日本は潜在成長率が高く、翌年には景気が回復し、インフレの傾向が出てきていた。昭和48年10月、いわゆるオイルショックが起こり、石油関係製品はもちろん、あらゆる商品が値上げされ、狂乱物価を現出した。政府はインフレ抑制のための総需要抑制政策・金融政策を行った。従来の安い石油を前提とした日本の高度成長は、これを機に低成長時代へと移行していく。さらに、政府の引締政策が浸透することで、狂乱物価は沈静化したが、昭和49年下期以降は企業の金融逼迫はどんどん悪化し、未曾有の大型不況へと突入していく。
日本全体の昭和40年代(文化編)
秋葉原で歩行者天国始まる (48年6月10日) |
団塊の世代の台頭で、昭和40年代は、文化的にも多様化した時代になる。
ファッション面では昭和45年にジーンズが大流行し、同年「ウーマンリブ」運動、昭和47年「中ピ連」結成と、男女平等主義と行動の時代のシンボルでもあった。昭和41年にビートルズが来日、「プレイボーイ」創刊。深夜放送も全盛で落合恵子や土井まさるなどが活躍した。昭和40年頃からアイビー族が流行し、昭和45年前後は若い女性を「アンノン族」(当時の人気雑誌「アンアン」「ノンノ」の読者層)と呼び、彼女達が国内旅行を好むことに対し、国鉄が「ディスカバージャパン」キャンペーンを展開し、国民の一般認識レベルでも、欧米に追い付いたことをシボリックにあらわした。
歩行者天国パレードから (48年6月10日) |
テレビでは、昭和41年に開始されたNHKの朝の連続ドラマの「おはなはん」、クレージーキャッツの「シャボン玉ホリデー」、藤田まことのあたり前田のクラッカー「てなもんや三度笠」が大人気に、あるいは、「鉄腕アトム」「オバケのQ太郎」なんどアニメ、「ウルトラマン」シリーズなどが子供たちの人気を集めるなど、人気番組が続出する一方、「おおきいことはいいことだ(森永チョコレート:昭和42年)」「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい(丸大ハム:昭和43年)」「オー!モーレツ!(丸善石油:昭和45年)」「狭い日本、そんなに急いでどこに行く(交通安全標語:昭和48年)」のような、名作CMが続出し、消費者は、楽しさや、好イメージやゆとりを求め始めた時代であった。
家電業界/秋葉原の昭和40年代
昭43.10 ソニー カラーテレビ/KV 1310 トリニトロン1号機(世界初 オールトランジスタ カラーテレビ) |
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このような混乱の時代ではあったが、家電業界は「カラーテレビ」という大黒柱が急成長し、団塊世代の消費需要もあり、好調な成長を続けていった。
テレビの世帯普及率は、昭和40年に8.3%であったものが、昭和45年には91.7%、カラーテレビの普及率は、昭和45年7.1%から、昭和50年73.1%と伸長した。
昭和40年代後半には、テレビ以外に、ステレオ、カセット式レコーダー、冷凍庫付冷蔵庫、クーラーも出回るようになり、家電メーカーが量産体制を整えることで価格も低下し、その結果また需要が拡大するという「大量生産・大量消費」の好循環を生み出していった。
このようなあこがれのカラーテレビとクーラーに、自動車(CAR)を加え、「新三種の神器」「3C」という言い方をした。
昭42.11 シャープ 白黒テレビ/12T-P3 純トラ(国産初の 純トランジスタテレビ) 45,800円 |
また、先に述べたように、団塊の世代が消費の主役になるにつれ、商品の価格や品質に敏感になり、従来のような必要最低限のものをなんでもそろえるという購買から、自分の趣味や嗜好に合った商品を購入するという傾向が強くなっていった。そのもっとも代表的な例が、オーディオ機器で、専門メーカーに加えて、家電メーカーがTechnics(松下電器)・AUREX(東芝)・Lo-D(日立)などのオーディオ専門ブランドを作り、若者のこだわりに応える商品を提供し、専門メーカーも含めて市場はますます活性化した。また、昭和45年の民放FMのスタートは、カセット式の録音(エアチェック)のブームを起こし、カセットデッキ付ステレオがヤングのあこがれのまとであった。
昭49/三菱 ウィンドファン WF-90/クルピシャ/34,800円 |
昭47.9 松下 ポータブルラジオ TR 505A |
昭41.5 三洋 洗濯機/SW-500 ホームランドリー (一層式全自動) 53000円 |
昭48 松下/ラジオ RF-888/吠えろ、クーガ |
昭45 パイオニア/ステレオ S-88(セパレートタイプ) |
昭44 東芝/クリーナー VC-60EK/21000円 |
昭46 三菱/エヤコン MS-22RE/霧ヶ峰 |
さらにクレジットやローンの制度の充実が、若い世代を中心とした購買の拡大に大きく貢献した。
完成当時の 朝日無線本社ビル(49年) |
家電業界に絞ると、30年代後半に噴出した家電流通の問題は、家電関係者の間で伝説となっている「熱海会談」で、松下電器の創業者・松下幸之助氏(当時社長)が、家電流通の代表者の意見を聞き、再び営業本部長として最前線に立ち、抜本的解決策を講じ、業界の安定へと大きく貢献した。
その一方で、社会的には先に述べたとおり、消費者運動が盛んになり、カラーテレビの二重価格問題などで、家電業界が矢面に立つこともあった。
流通業界は、メーカーが、どんどん生産設備を拡大するように、流通業もアメリカ式のチェーンストアの理論の影響を受け、町中にいわゆる「スーパー」が生まれ始めた。また、大量消費を支えるように、店舗の大型化も進んだ。
秋葉原の販売店も、このような変化の影響を受け、郊外に出店をする販売店と、店舗の大型化・増床を図る販売店が増加した。
秋葉原以外への出店は、判断の別れるところであり、秋葉原の集客率と販売効率は他のエリアでは望む術もなく、当時も、郊外の店のあまりの効率の悪さに撤退した店も多い。逆に、積極的に店舗を増やした販売店もあった。
ヤマギワ本店社屋(昭和40年) | ヤマギワ本店ビル 第1期工事完成(昭和42年4月1日) |
昭和46年の新宿副都心高層ビルの第一号、京王プラザホテル(47階・170m)の完成に象徴されるように日本の建築技術が急速に進歩したことと、消費者のニーズが多様化し、大量陳列が必要な時代になると時代を読みきったことなどを背景として、、秋葉原の販売店も急速に大型店舗化していく。昭和40年代後半に続々と、ビルが立つようになった。
また、都電が撤収され、昭和48年から歩行者天国も実施されるようになり、現在の町並みの原形が昭和40年代末にはできあがりつつあった。
参考文献:
「千代田区史(千代田区刊)」
「The秋葉原(日経産業新聞編)」
「ヤマギワ60年の歩み」
「ラオックス50年社史」
「LOOK BACK JAPAN(アクロスSS選書)」