第五章~家電全盛期とパソコン黎明期(昭和50年代)~

現在とほとんど変わらない秋葉原駅前
現在とほとんど変わらない秋葉原駅前
(昭和57年:看板の「レコード針」などの商品名が当時を表す)

日本全体/家電市場の昭和50年代(経済編)

昭和50年7月/ソニー/ビデオデッキ・ベータマックスSL-7300(テレビチューナ付)/285,000円
昭和50年7月/ソニー
ビデオデッキ・ベータマックス
SL-7300(テレビチューナ付)
285,000円

 昭和50年代は、昭和48年に始まる第一次オイルショック、54年の第二次オイルショックと、エネルギー危機を経て、環境問題も含めて、地球の資源が有限であることを強く認識し、低成長へ移行する「節約・省エネルギー」の10年であった。
 「不確実性の時代」という言葉が語られ、ロッキード事件での田中元首相の逮捕、長島・王などのスーパースターの引退など、世相的には、低迷した10年間であった。 その一方で、家電業界に限って見れば、50年代初頭は、逆に耐久消費財への支出が年平均6.7%(昭和50~53年)増と、同時期の消費支出平均の1.4%増に比べると著しく伸びている。

昭和51年10月/ビクター/VTR・HR3300(VHS1号機)/256,000円
昭和51年10月/ビクター
VTR・HR3300(VHS1号機)
256,000円

 この原因は、1)エネルギー危機を通じて物価が上昇する中、家電製品は「物価の優等生」と呼ばれ価格が安定し、割安感が出た。2)普及率が高い製品の買い替え需要が、昭和48年~49年のオイルショックで起こった買い控えの分が顕在化した。3)急激ではないがルームクーラー(普及率:昭和51年19.5%→昭和59年49.3%)ふとん乾燥機(普及率:昭和53年6.2%→昭和59年18.7%)ビデオ(普及率:昭和53年1.3%→59年18.7%)と新製品が生まれた。4)昭和50年頃から爆発的に売れ始めたシステムコンポやラジカセ、昭和54年に発売され、世界の音楽文化に影響した「ウォークマン」、あるいは、従来白ばかりだった、洗濯機・冷蔵庫などがカラー化され、若者・ニューファミリーのライフスタイルを反映した新しい商品が生まれ、家電市場を引っ張った。

昭和53年/松下/カラーテレビ/TH-20-B8/パナカラー1号機/218,000円
昭和53年/松下
カラーテレビ/TH-20-B8
パナカラー1号機/218,000円

 昭和53年には、「インベーダーゲーム」が爆発的に流行し、YMOの活躍とともに、街中に「ピコピコ」という電子音が流れた。現在のゲーム市場の隆盛へとスタートを切ることになる。
 昭和57年にはニューメディアブームが起こり、マイコンとともにキャップテン・CATVが脚光を集めるが、社会を大きく変革するには及ばず、現在のマルチメディアの時代まで雌伏の時代を過ごすことになる。
 また、昭和58年には、ビデオの年間生産台数が、カラーテレビを越え、60年代のAV・大画面テレビの爆発的ヒットへと繋がっていく。

 その一方で、日本国内のモータリゼーションが進み、自動車の年間国内販売台数は500万台を越え、車は一家に1台以上の普及を見せるようになる。昭和45年にケンタッキーフライドチキン、昭和46年にマクドナルド、ミスタードーナツ、昭和49年にデニーズと上陸した外食産業の発展と、チェーンストア方式が郊外で急成長を見せはじめ、郊外ロードサイドにショッピングセンターが姿を見せ始めるのも昭和50年代である。

秋葉原の昭和50年代(その1~完成する街並み)

昭和54年3月/三洋/ミニステレオカセットレコーダー・MR-U4/43,800円
昭和54年3月/三洋
ミニステレオカセットレコーダー
MR-U4/43,800円

 昭和46~47年に、田中角栄首相が唱えた「日本列島改造論」による日本中の開発ブームは、土地の高騰をもたらし、昭和45年以降、秋葉原を初め、日本中の商業集積地は、高騰化した土地の生産性を高めるために、高層ビルを建築し、商業空間の拡大に努めた。秋葉原でも、昭和47年5月にラジオ会館の残り2/3が完成したのち、続々と高層ビルが立ち並び、ほぼ現在の街並みが50年代前半に完成した。また、「秋葉原」と呼ばれるエリアが膨張しはじめ、日本通運裏から神田寺のあたりに部品商を中心とする小売り・卸し・メーカーが誕生。ワシントンホテルの開業とほぼ同時期に、ニュー千代田ビルが建てられ、さらに第一家庭電器・丸善無線電機があいついてビルを建て、このあたり一体を「マイコン・パソコン」エリアへと変化させた。昭和通り側にも輸出を中心とした部品商社の設立も相次いだ。

 販売面積の拡大と、魅力的な家電製品の登場で、石油ショックの影響もほとんど受けず秋葉原の「成長神話」は50年代に入っても続いていった。

秋葉原の昭和50年代(その2~マイコン・電子部品の誕生)

昭和54年7月/ソニー/ウォークマン・TPS-L2/33,000円
昭和54年7月/ソニー
ウォークマン・TPS-L2/33,000円

 昭和52年に、アメリカで8ビットパソコン・アップル・が発売され、インテルの8086など16ビットのマイクロプロセッサが登場すると、昭和54年前後で秋葉原でもコンピュータを扱うお店が増え始めた。トランジスタから、IC、LSIへと変化する中、秋葉原は電子部品の中枢としての顔も持ち始めた。
 日本第一号のマイコンショップが、昭和51年ラジオ会館2Fに「NEC Bit INN東京」が開かれた。同会館だけでなく、神田川沿いに、真光無線のオールマイコンビル(ニュー千代田ビル)・ロケット本店のマイコン売り場、田中電気の東芝パソコンフロアなど新しいエリアが広がった。

 57年にはサトームセンをはじめ1ケ月に6店舗も開店し、57~58年には、かっては異端児扱いされたマイコンビジネスがようやく認知された。

昭和59年2月/シャープ/ワードプロセッサーWD500/330,000円
昭和59年2月/シャープ
ワードプロセッサーWD500
330,000円

 また、ジャンクショップも生まれ始めた。昭和48年に国際ラジオ(非会員)、昭和49年に秋月電子(非会員)が廣瀬無線裏にジャンク(解体品)ショップを開き、秋葉原のもう一つの顔である、ジャンクショップが成長したのも50年代であった。
現在のパソコン・マルチメディアの業界で活躍するビジネスマンの多くが、この時代に秋葉原の各マイコンショップで、キーボードを叩いた記憶があるに違いない。まさに、現在のマルチメディア社会の萌芽が昭和50年代の秋葉原にあった。

秋葉原の昭和50年代(その3~国際化の急進)】

昭和54年/パイオニア/システムコンポ・プイロジェクトA7
昭和54年/パイオニア
システムコンポ・プイロジェクトA7

 日本のメーカーの技術力が世界に追い付いた昭和40年代以後、日本の家電製品は世界中で人気が高まった。「Made in Japan」が品質の証の時代となり、日本へ観光・ビジネスで訪れる外国人は、お土産に日本の家電製品(ラジオ・ウォークマン・ステレオなど)を購入するために秋葉原で買い物するようになった。
 そのようなお客様のために秋葉原では「ヂューティーフリー(免税)店」を持つお店が増え、昭和57年頃にはラオックス、廣瀬無線、ヤマギワ・西川無線、オノデン、山本無線など約15店が、免税店・免税フロアを設けた。

昭和55年4月/東芝/洗濯機・乾燥機・専用台セット/SD-200N・ED-700N・DS-60N/52,000円
昭和55年4月/東芝
洗濯機・乾燥機
専用台セット/SD-200N
ED-700N・DS-60N
52,000円

 もともと、秋葉原はメーカーや販売店のの看板や電飾、独特の看板・店頭展示のポップなどで、賑やかな町であったが、外国人向けの告知・看板、あるいは店頭の外国人の店員さんが増えるようになり、ますます無国籍の不思議な空間になっていった。
 日本の家電メーカーの世界中での活躍とともに、「AKIHABARA」は世界的にも有名な街になっていった。

昭和55年/松下/VTR・NV-3000,VZ-C650N(カメラ)/198,000円・138,000円
昭和55年/松下
VTR・NV-3000
VZ-C650N(カメラ)
198,000円・138,000円


秋葉原の昭和50年代(その4~秋葉原電気街振興会の設立)

 秋葉原の発展とともに、共同宣伝・通りの美化・安全、町全体でのお客様へのサービスの改善、バッタ屋など不良店舗と優良小売店との差別化など、町全体の対策を期待されるようになり、本ホームページを提供している「秋葉原電気街振興会」が昭和54年に設立された。
 翌年、昭和55年から「秋葉原電気まつり」が開催され、単独の商店街最大のキャンペーン(推定)が今日まで続けられている。
秋葉原電気まつり57年
秋葉原電気まつり57年
 開始2年目の「秋葉原電気まつり」のポスター。5万円が800名にあたる総額4000万円の大盤振る舞い。
「いいものいっぱい、安さいっぱい」は今も同じ!
秋葉原電気まつり59年
秋葉原電気まつり59年
 開始4年目の「秋葉原電気まつり」のポスター。賞金総額は6000万円のに。
キャラクターは、左からエジソン・クレオパトラ・ベートーベン・ダビンチ。
いずれのポスターもイラストの商品が当時のあこがれのヒット商品。